丘崎誠人



丘崎誠人(おかざきまさと 1972年生)
 [殺人犯]


 1997年5月4日午後、奈良県添上郡月ヶ瀬村にて、村内に住む中学2年の女子生徒(当時13歳)が卓球大会からの帰宅途中に行方不明となった。心配した家族が警察に通報、付近を捜索したところ自宅近くの県道で女子生徒の物と思われる靴を発見。現場にはタイヤ痕とガードレールには血痕が付着していた。さらに近くの公衆トイレから切り裂かれたジャージと血痕が付着したダウンベストなどが発見された。

 警察は、ひき逃げと何らかの事件に巻き込まれた可能性もあるとみて両面からの捜査を開始し、地元住民から聞き取り調査を行った。捜査において、同村に住む無職の丘崎誠人(当時25歳)が捜査線上に浮上した。丘崎は集まった多くのマスメディアのインタビューに応じ、すでに自分が殺害した女子生徒の失踪を心配するそぶりを見せたり、怒鳴り散らしたり、潔白を主張するようなコメントをビデオカメラの前で残していた。また、村民たちと共に何食わぬ顔で捜索に参加していた。

 7月25日、丘崎は略取・誘拐罪の容疑で逮捕された。丘崎は当初犯行を否認したが、その後の調べで女子生徒の失踪後に修理・売却した四輪駆動車の後部座席から発見された血痕のDNAが女子生徒のものと一致した事、ジャージに付いていたタイヤ痕が丘崎の四輪駆動車のタイヤと一致した事、ダウンベストに丘崎と同じ血液型の毛髪が発見された事などが判明。追及すると丘崎は犯行を自供。丘崎は5月4日午後、帰宅途中だった顔見知りの女子生徒に車から「家に送ってあげるから乗るか?」と声をかけたところ、無視されたため激昂し、歩いている女子生徒の背後から車ではねて、近くの公衆トイレ付近で石を使って殴打して殺害し、女子生徒の死体を車に乗せて三重県上野市の山中に死体を遺棄していたと供述。丘崎の供述どおり女子生徒の白骨化した遺体が発見された。

 丘崎の兄弟は姉が3人、妹が1人。両親はともに日本人と朝鮮人のハーフ。内縁関係の夫婦で、土木の仕事に就いていた。父は無口、母親は気性の激しい性格だったが2人とも働き者で通っていた。長姉は村に一軒しかない居酒屋で賄いをしていた。集落には茶積み農家しかなく、丘崎家は浮いていた存在だった。封建的な村社会の中、朝鮮人の血が入っていることから丘崎家を「朝鮮が!」と見下す者もいたという。家は藪に囲まれたあばら屋のような借家であり、この家を借りることができたのは民生委員であった女子生徒の祖父の計らいによるものだった。家賃は月々1万円程度。一家は30年以上、村に住みながら「区入り」(村の一員に加えること)を認められていなかった。

 丘崎が小学3年の頃、公民館で放火事件が起こる。村人は誰もが丘崎の仕業だと思った。本人に問い詰めることはしなかったが、この事件を境に村人の丘崎に対する目は一変する。親達の中には丘崎を避けるように子供に言い含める者もいた。以来、ビニールハウスが燃えたり、祭りで現金が紛失したりすると、まず丘崎が疑われることになった。この事件後、丘崎もガラッと変わり、誰とも遊ばずに家にいることが多くなった。

 中学2年になってからは学校にほとんど行かず、登校しても廊下でぽつんと1人立っていたりして友人はいなかった。家にこもっている時はなにか気に入らないことがあると母親を怒鳴ったりと、家庭内暴力の影も見えてくるようになった。卒業証書を同級生が家に届けに来てくれたが、丘崎は破り捨て燃やした。また卒業生1人1ページずつ綴る卒業文集には彼のページはなかった。不登校の原因については「教師からの体罰であった」と丘崎は主張している。

 中学卒業後は大阪や東京に調理師として住み込みで勤めたが、性に合わず実家に戻ってきた。その後も土木作業員、警備員、左官業など職を転々とするものの、どこも長続きしなかった。事件当時、すでに二女と三女は独立し、両親と四女、長姉とその子供3人の8人で暮らしていた。丘崎は相変わらず無職で、地域住民との摩擦が耐えなかった。テレビゲームや車にばかりのめり込み、事件を起こす2ヶ月前に四輪駆動車を購入し、乗り回していた。

 丘崎は逮捕後の供述で、「断り方も知らない奴や。もうすぐ家やからいいですくらいの言い方あるやろう」「俺をよそ者やと思ってるから無視しよる。返事もしやがらん。村の者は俺を嫌っている。この女も一緒や」「許さん、車を当てて連れ去ってやろう。これまでの恨みを晴らすええ機会や」「いたずらするつもりだった」「俺や家族をよそ者扱いする村の人間、風習、しきたりがすべて嫌いだった」「幼少の頃から貧しい家に育ち、他の家と同様のレベルの生活をすることができなかったことに加え、母親が文盲で、しかも父母の姓が異なっていたことなど、他人とは異なるという認識を持っていた」と語った。

 公判で、丘崎は「村からの差別を度々受けていた。その鬱積が犯行に至った」と主張。だが、検察側は「差別を受けたという供述内容は身勝手で、本人自身もそれを感じていたとは認められない」と主張した。

 2000年6月14日、大阪高等裁判所は丘崎に対して一審の懲役18年を破棄して無期懲役を言い渡した(上告せず確定)。2001年9月4日午後8時頃、収監先の大分刑務所の独居房で自らのランニングシャツで首を吊って自殺。動機は不明で遺書も無かった。4日は女子生徒の月命日だった。

 2001年9月4日死去(享年29)


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