ベン・ホーガン



ベン・ホーガン(Ben Hogan 1912年8月13日生)
 [アメリカ・プロゴルファー]


 テキサス州ダブリン出身。11歳から地元テキサスにあるグレンガーデン・カントリークラブにてキャディを始め、1931年に19歳でプロゴルファーとなった。ホーガンはその現役時代における最強のゴルファーで、かつ、ゴルフ史を通じても屈指のプレーヤーに数えることができるというのが、彼に対する大方の評価である。「The Hawk(鷹)」の異名をもつホーガンは、確かなゴルフの技術に裏打ちされた強固な意志と果敢な決断力を持っていたため、しばしば対戦相手を身動きできないほどに畏縮させたと伝えられる。また、ホーガンは競技中、ほとんど言葉を発することがなかったともいわれる。

 身長170cm、体重64kgと ゴルファーとしては決して体格に恵まれなかったが、ドライバーの飛距離は出る方で、プロになりたての頃はドライビング・コンテストにも出場していた。また、ホーガンは左利きであったが、ゴルフでは右打ちであった。1938年から1959年の間、ホーガンの選手生活は第二次世界大戦や致命的とも思われた自動車事故で中断されたにもかかわらず、プロゴルフのトーナメントで64勝を達成している。

 1948年のみで、ホーガンはトーナメント10勝を稼いだ。しかし、翌年冬に彼を悲劇が襲う。自動車を運転中、バスとの正面衝突により瀕死の重傷を負ったのである。骨盤の複雑骨折、鎖骨、左足のくるぶし、肋骨の各骨折に加え、身体各所に血栓ができ、彼は生涯にわたって循環器系を始めその他肉体的な制約を背負うことになる。当時の主治医は、競技ゴルフに参加することはもちろん、2度と歩くことすらできないのではとの診断を行った。

 この1949年の事故の前には、ホーガンは当時のゴルフ界を支配する選手といっても過言ではなかったにもかかわらず、おせじにも観客たちの心を捉えて離さないような人気プレーヤーとはいえなかった。これは、おそらく彼がコース上で、どこか冷徹で、超然とした人柄に見えたせいである。しかし、1950年のロサンゼルス・オープン大会において、ホーガンが事故のわずか11ヶ月後にトーナメントに復活を果たし、しかもプレーオフでサム・スニードに敗れはしたものの第2位の成績を収めた。当時の高名なスポーツ記者、グラントランド・ライスは、この大会でホーガンが2位に終わったことを「彼のハートは、もはやそれ以上の順位を狙うのに耐えられるほど強くない」と評した。

 しかしながら、ホーガンは、これら評論家達の声を尻目に、復活からわずか5ヶ月後にメリオン・カントリークラブ18番ホールのプレーオフでロイド・マングラムとジョージ・ファジオを下し、自身2度目となる全米オープン優勝を達成した。また、この後もホーガンは、事故で痛めた片足を引きずりながらも、6つのメジャー大会を含むプロゴルフツアー(PGA)12勝を達成している。1953年にマスターズ、全米オープン、全英オープンでゴルフ史上初のメジャー大会年間3冠を達成。全英オープン初優勝を果たして帰国すると、ニューヨークで紙吹雪の舞う凱旋パレードで迎えられた。同年にはトッププロスポーツ選手としてヒコック・ベルト(年間最優秀プロスポーツ選手賞)を授与された。

 後にわかったことであるが、ホーガンは事故の影響で視力が落ち、左目はほとんど見えず、身体の痛みが消えることもなかったという。痛み止めを飲みながらプレーしていたが、それらのことを公にはしなかった。引退後は、ゴルフ・クラブ製造会社を創立した。今日でも、彼の名前を冠したゴルフクラブは数多く製造、使用されている。晩年はアルツハイマー病に悩み、1997年7月25日に84歳で逝去した。


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