アレッサンドロ・ナニーニ



アレッサンドロ・ナニーニ(Alessandro Nannini 1959年7月7日生)
 [イタリア・レーシングドライバー/実業家]


 イタリア北部の都市シエナで、有名な老舗菓子店「ナニーニ」の長男として生まれる。姉は歌手のジャンナ・ナニーニ。ナニーニはモトクロスでモータースポーツキャリアをスタートさせた。その後シトロエン・ディアーヌを手に入れ1978年に四輪ラリーにデビュー。フィアット・アバルトやランチア・ストラトスでもラリー出場経験を持つ。1980年にフォーミュラ・レースに転向してサーキットを初走行、イタリアのフォーミュラ・フィアットに参戦し、1981年にチャンピオンを獲得。イタリア国内で徐々に名を知られるようになる。

 翌1982年に、F3を飛ばしてF2にステップアップ。この際にナニーニを見出し、力を貸したのがジャンカルロ・ミナルディであった。ミナルディチームから参戦した同年のF2でランキング10位となる。1984年からはランチアワークスから声が掛かり耐久レースにも参戦開始。同年のル・マン24時間レースでは序盤トップを快走する走りを見せた。ミナルディチームは1985年からF1へのステップアップを決定。ジャンカルロ・ミナルディはナニーニとともにF1にステップアップするつもりでいたが、国際自動車スポーツ連盟が「F2での戦績が不十分」としてナニーニへのスーパーライセンス発行を認めなかったため、この年のナニーニのF1行きは流れた。ミナルディチームは代わりにピエルルイジ・マルティニと契約しF1参戦を開始。一方のナニーニはもう1年ランチアワークスから耐久レースに参戦し、スーパーライセンスの発給を待つこととなった。

 1986年、ミナルディが2カーエントリーになり、エースにベテランのアンドレア・デ・チェザリスを起用。ナニーニにもスーパーライセンスが発給されF1デビューを果たす。しかし搭載していたモトーリ・モデルニターボエンジンの信頼性が低く、10戦連続を含む14回のリタイヤを記録。第15戦メキシコGPでの14位が初の、そしてこの年唯一の完走となった。シャシー性能も低く、第4戦モナコGPでは予選落ちも喫している。予選成績ではチームメイトのデ・チェザリスに対し、16レース中8レースで上回り、互角の成績を残した。

 翌1987年もミナルディからフル参戦するが、引き続きモトーリ・モデルニエンジンをはじめとするマシンの信頼性の欠如に悩まされた。チームメイトの新人エイドリアン・カンポスを予選、決勝とも圧倒する成績を収め、戦闘力が低いマシンでほぼ毎回中盤グリッドを獲得したが、決勝は完走が2度の11位のみという結果に終わる。結局、ミナルディでは2年間で完走3回という戦歴だったが、その中でも実力が認められ、翌1988年から当時の4強の一角であるベネトンへと移籍することとなった。

 ベネトンの1988年用マシン、B188は非常にバランスに優れるマシンであり、トップクラスのチームの中では数少ない自然吸気エンジン搭載車ながら高いコーナリング性能を示し、マーチ881と並んでこの年の台風の目的存在とされた。ナニーニは第2戦サンマリノGPで6位に入り、F1での初入賞を記録。その後も、第8戦イギリスGPの3位で初表彰台を記録したのを含め、計5度の入賞(うち、3位表彰台2回)。12ポイントを挙げ、ランキングは10位となった。ただしチームメートのティエリー・ブーツェンと比較すると、予選成績こそ五分だったが、決勝では獲得ポイントでブーツェンの27(入賞8回、うち3位表彰台5回)に対し12と、やや差を付けられる形となった。またリタイヤ2回のブーツェンに対し、ナニーニはリタイヤ7回と、ややムラの多さが見られた。ベネトンチームは合計39ポイントを獲得し、コンストラクターズ選手権は3位となり、自然吸気エンジンを使用するチームとしてはトップの成績を収めた。

 1989年は開幕4戦中3戦で入賞、好調な滑り出しを見せる。シーズン中盤はリタイヤが多くなるが、その間完走したレースでは全て入賞していた。第15戦日本GPにおいて、ナニーニは2位でフィニッシュ。その後、トップでチェッカーフラッグを受けたアイルトン・セナが、アラン・プロストとの接触後のシケイン不通過で失格となり、繰上げで念願の初優勝を遂げた。これをはじめ、4度の表彰台を含めた8度の入賞を記録し、ランキング6位でシーズンを締めくくった。

 1990年もベネトンに残留。新チームメイトである元ワールドチャンピオン、ネルソン・ピケが開幕から連続入賞を重ねていたのに対し、ナニーニは獲得ポイントではピケの後塵を拝していた。しかし双方が完走したレースでは、ほぼ毎回ピケの前でフィニッシュし、第9戦ドイツGPや第10戦ハンガリーGPでは優勝もちらつくレースを展開するなど、存在をアピールしていた。そんなナニーニに、名門フェラーリが目を付けた。すでにベネトンとの契約延長が発表されていたナニーニを、フェラーリが翌年のドライバーとして引き抜こうと画策。フェラーリ監督のチェーザレ・フィオリオとベネトン監督のフラビオ・ブリアトーレとの間ではフェラーリ移籍の方向で話が進められ、第12戦イタリアGP時には契約譲渡寸前となっていた。しかしナニーニが2年契約を希望したところ1年契約を提示されたことや、ウィリアムズやティレルとの獲得合戦となっていたジャン・アレジを第一候補としていたフェラーリ側の態度などに不信感を抱き交渉は決裂。9月14日にベネトンが改めてナニーニの来季ベネトン残留を発表、直後の9月18日にフェラーリからアレジ獲得の発表がされた。フェラーリとの契約破談後の9月30日、第14戦スペインGPでナニーニは3位となり、この年3度目の表彰台に上がる。しかしこのレースで1・2フィニッシュを決めたフェラーリ勢とシャンパンファイトをすることを嫌がり、早々と表彰台から姿を消した。結果的に、このスペインGPがナニーニのF1での最後のレースとなった。

 続く日本GP直前の10月12日、ナニーニを含む4人が搭乗していた自家用ヘリコプター「エキュレイユAS350B」(自身が1週間前に中古購入した直後だった)が、シエナ郊外にあるナニーニ家の別荘敷地内で着陸に失敗し墜落、その際にヘリのローターで右腕の肘と手首の間を切断する重傷を負いチームを離脱した。事故でレース生命を絶たれたかに思えたが、事故を間近で目撃していたナニーニの父親が気転を利かせ、切断された右腕を氷水につけ救急車でナニーニと共に運んだため縫合手術に成功(右腕は15cm短くなった)し、長いリハビリを経てレースに復帰した。

 その後はドイツ・ツーリングカー選手権にアルファ・ロメオより参戦し活躍したが、F1カーを走らせるのに必要な体力と技術を取り戻すことはできずF1界に復帰する事はなかった。1992年日本GP前、イタリアでの企画で、ステアリングのグリップ部分にスイッチを移植し左手のみでシフトチェンジできるように改造したフェラーリF92Aをドライブしたが、この際に右手が耐えられないと自ら判断、F1復帰を完全に諦めたという。その後もイギリスツーリングカー選手権などのツーリングカーレースで、右腕の負担を軽減するよう改造された特別車を駆って活躍したが、1997年のFIA GT選手権を最後に現役を引退。現在は家業を継承した形で、自身の名を冠した喫茶店チェーンを世界的に展開している。


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